セックスリビドー

出会いシステム

フロイト

マルクスとフロイトは、カントにおいて頂点に達する、個人の自律という人間観に根底から疑問を投げかけた。
マルクスによれば、物質的条件が私の思考を決定する。(更に「私」という存在の実体性は、交換のセックスシステムのなかで解体する。)
フロイトによれば、「私」を動かしているのは、「私」の意識の中には無い何ものかである。

無意識という現象

『精神分析入門』のなかで、フロイトは、次の三つの現象を取り上げている。これらは、「私」の気づかない「私のセックス欲望」を語るものである。
精神分析理論によると、無意識的動機とは、超自我によって禁止された動機であり、意識的な自己が気づいていない動機である。
それは、抑圧という防衛機制によってパーソナリティの無意識的なレベルに追放された動因、衝動、願望、欲望である。
間違い。夢。夢は、(無意識の)願望の(仮装された)充足である。ノイローゼ(神経症)。心的外傷への固着。代理満足。
セックスリビドーの発達の固着と退行。フロイトのリビドー概念は彼の生涯の間で変遷した。
初期の理論では、リビドーとは性的なエネルギー(その表現は多様な心的・身体的表現をとりうる)であり、自己保存本能、自我本能とは対立するものとされていた。のちには、自己保存本能もリビドーとともに作動するものと考えられた。
セックスリビドーが自己に向いた状態を自我リビドー、自己愛(セックスナルシシズム)、それが自己以外の対象に向いた状態を対象セックスリビドー、対象愛と呼んだ。
フロイトは晩年には、セックスエロス(しだいに増大する統一体を作り出しこれを維持することがセックスエロスの目的。生の本能)と、破壊本能(死の本能)との二大本能の対立を認め、エロスのエネルギーをリビドーと呼ぶと再定義した。
フロイトのリビドー概念は,たとえば自我リビドーが増せば対象リビドーが減るなどと考えるようにつねに量的な概念であり、同時に水力学的、流体力学的なニュアンスを帯びた概念でもある。
フロイトの初期の神経症論、性欲論、自己愛論は、ことごとくこのセックスリビドーという中心概念に基づいて構成されてきたといえる。
C. G. ユングもセックスリビドーなる概念を用いるが、ユングにとっては、セックスリビドーとは精神的エネルギー全体を意味する。
無意識の本質は、超自我による無意識的動機の抑圧という点にある。
そして抑圧された欲望は、代理行為において充足される。
例えば、買い物依存症の人がいて、聞きもしないCDを次々に買わずにいられないとしよう。彼が欲しがっているものはCDなのであろうか。
彼がCDを買うときに得る満足の性質を冷静に分析してみると、むしろ他の何物かの代理物としてCDが求められていることが分かるであろう。
或いは、あなたが、「先生」に深い信頼を感じたとしよう。
その時、先生の姿の中に求められているのは、「父」の代理物なのではないのだろうか。
そうした代理充足のメカニズムこそが「無意識」である。

私(自我)の成立史

セックス快感原則(快楽原則)とは、フロイトによれば、心的機能を支配する二つの原則の一つ。精神分析の用語。精神活動は「快楽原則」と「現実原則」という二つの原則によって支配されている。
前者は,本能欲求の高まりを現実の充足か幻覚的な充足によって低減させる活動であり,後者は,本能の満足を現実に適応するように馴致させていく過程である。
現実原則と並んで心的機能を支配する基本原則の一つ。
すなわち,それは本能の満足を断念させたり、搭回させたりする。現実原則は快楽原則に対置されるけれども、対立するものではない。
それはセックス快楽原則の直接的な発動に基づく現実を無視した危険からわれわれを保護しながら,終局にはセックス快楽原則に奉仕するものとなる。
心的活動は全体として、不快を避けて、快を得ることを目的とする。
不快が興奮量の増大にかかわり、快は興奮量の減少にかかわるから、快感原則は経済原則といえる。
フロイトの用語に恒常原則という概念がある。
これは、人間の心的装置が内在する興奮の量をできるかぎり低く、あるいは少なくとも恒常に保つように努めているという仮説である。
フロイトの説く快楽原則は、この恒常原則からさらに導き出されたもので、人間の心的過程は本来、緊張に基づく不快を回避し、空想または現実の満足によってその緊張を低下させることによって快を得ようとするとされた。
新生児は,この快楽原則またはによってのみ支配されていると想像されるが、自我の発達につれて、現実原則が優位を占めるようになる。
これは快楽原則に反対するものではなく、個体が外界の現実に適応しながら無理なく不快な緊張を解消し得るようにその緊張解消を延期し、緊張解消による満足の可能性の一部を断念し、長い搭路をへて快感に達することを目ざすものである。
したがって現実原則も椿ずるところ快楽原則の一修飾である。
フロイトにいわせれば、現実原則が支配的な心の機能の型が確立していることが成人が健康であることの条件で、セックス快楽原則の支配する型の遺残や再燃は神経症や精神病を意味する。
このように,フロイトは快楽原則は自我の発達によって克服されるべき幼児的なものとみなしたのであって、フロイトを快楽主義者の系譜に属すると考えるのはむしろ間違いである。

エディプス・コンプレックス

子供が両親に対して抱く愛および憎悪の欲望の組織的総体をいう。
その陽性の形ではコンプレックスは「エディプス王」の物語と同じ形であらわれる。
すなわち同性の親である競争者を殺そうとする欲望と異性の親への性的欲望とである。
その陰性の形では逆になり、同性の親への愛と異性の親への嫉妬と憎しみとなる。
実際には、エディプス・コンプレックスの「完成した」形では、この二つの形態はさまざまな程度で並存するものである。
フロイトによれば、エディプス・コンプレックスは3歳から5歳の間に頂点に達する男根期に体験される。その凋落は潜伏期への移行を示す。
それは思春期に再び復活し、一定のタイプの対象選択により、程度の差はあっても克服される。
エディプス・コンプレックスは、人格の構成と人間の欲望の方向づけに基本的な役割を演ずる。

無意識の構造

自我・エス(イド)・超自我。
フロイトの理論では、イド(エス)はパーソナリティの原始的で、根本的な部分である。
それは、一つのグループとして捉えられた生物学的諸動因とほぼ同じ。
ジョンは強制収容所の囚人である。彼と彼の仲間はゆっくりと飢え死にさせられている。
ある日彼は自分自身のパンの割り当てを食べた後で、弱い仲間の囚人の手からパンを盗んだ。これは、ジョンにとってはいつもと違った行動だった。
しかしこの行動はイドに結びつければ、一部は説明できる。厳しい状況下にジョンは、彼のパーソナリティの原始的なレベル、すなわちイドに退行していた。
イドは現実を考慮しないで、あるいは他人の権利を考慮しないで食べ物、あるいは食べ物に対するセックス欲望を意識的に心に示したのだ。
超自我とは、道徳指向のパーソナリティの側面である。
それは、自己が正邪を知覚することである。
既婚男性のロンは、婚外でのセックス関係をしたがっている。
彼のイドは、心の奥底から彼に言う。「それをしに行け!楽しみを持て!人生は一回しかないんだ!」と。
子供のときの厳格な道徳的訓練に由来する彼の超自我は心の奥底から言う。
「やめろ!結果を考えろ。お前はこのようにして、お前のかみさんを侮辱してはいけない。お前がしたことは悪いことだ」。
ロンはよく発達した超自我を持っていた。それで彼はこの命令に従う。
超自我という概念は、フロイトとともに始まった。
彼が立てた仮説によると、超自我が過度に発達している人は、神経症的反応をする傾向がある。
イドの願望と超自我の禁止との間の絶えざる葛藤は、慢性的な不安と緊張を生む。
他方、超自我が十分に発達していない人は、人格障害になる傾向がある。彼等は、無責任で、衝動的である。
フロイトによると、超自我は二つの面を持っている。
それは、良心と理想自我である。良心は、警告をしたり、ある願望は禁止されていると自己に告げる超自我の側面である。
良心の活動は、罪悪感を生む。自我理想は、目標を指し示す超自我の側面である。この目標は、両親の抱負を子供が知覚したことから生まれることが多い。

オイディプス像

1936年、マリエンバートで開催された第十四回国際精神分析学会でラカンが発表した概念に発する。
鏡像段階とは私が私の外部にある鏡の中の像へと同一化することで、私自身を一つのまとまりを持った肯定的な姿として構成して行く過程のことをいう。
人はその乳児期、神経系の未熟さゆえに、身体的まとまりに欠けた不調和な時期(寸断された身体の不安)を過ごす。
このバラバラな身体に統一感を与えて、自己に肯定的な感覚を持てるようにするのが、鏡に映った自己の象である。
鏡像は主体をその魅力的な統合性のうちに虜にし、人はこれとイメージのうちに狂おしく同一化していくことになる。
主体はこの外部の鏡像を取りいれ、欠けた自己自身の統一的な姿を先取りして、この場所に自我なる主体の仮面を見出すこととなる。
しかし主体がこのような姿で自我を獲得することは、逆に自己の統合性を外部に委ねることになり、主体はその主人性を外部の何ものかに奪われるという皮肉な事態を迎えてしまう。
結局、主体は外部の鏡像とその主導権を争う、不安定極まりない不均衡な状態に追いやられてしまう。
こうした食うか食われるかといった想像的なシーソーのような揺れ動くイメージ優位の嵐の中、これを乗り超えるべく招聘された次元こそ、象徴世界の父たる絶対他者の審級なのである。
この象徴的他者の出現により、主体はその主人性を自己の鏡像と相争うような決闘的なシーンを抜け出して行くことができるようになるのである。
いずれにしろ鏡像段階の概念は、人が決して意味するものの主人ではなく、意味するものの次元こそ人々をそこに魅了し、人を人として構成していくものだとするラカンの出発点にあり、また人は自らの中心を自己の内部には見出せないとする点で、精神分析の根本思想を明確に表明したものだといえる。

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